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登録年月 07/2004

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2005年3 月11日 (金曜日)

コメント

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もや

はじめまして。空襲のことは父も話さずに逝ってしまいました。母の実家(神田の商家)も父の勤務先も燃えてしまったのですが、失われてしまった情報を残念に思っております。因みに大正関東地震の被災体験は祖父の自伝に残っており、その抄録を私のサイトでもご紹介しております。これからもブログを拝見するのを楽しみにしております。一層のご活躍をお祈りします。

junhara

東條さん
よくぞ生き残ったということですね。こういうのは失礼かもしれませんが、おぶって逃げてくれたお母さんに感謝しなければなりませんね。
下町は下町でも私の実家は黒門町でしたから、深川とは事情が違ったと思います。同じ黒門町でも東黒門町は焼けましたが、銀座通りをはさんだ西黒門町は焼けませんでした。
東京大空襲の被害は浅草や深川など下町の東の方がひどかったからではないかと思います。私の育ったところは被災地の西のはずれ、ちょうど境界あたりではなかったかと思われます。

東條 巖

原さんが青梅に疎開退避してるとき、私は母の背におぶさって
東京大空襲の火炎に追われて深川越中島周辺をさまよっていました。それから今日まで、それこそいやと言うほど自分の記憶には無い空襲の話を年中聞かされて育ち、今ではすっかり大人の体験者のように成っています。近所の半分か三分の一は死にましたからね。遊んでいた焼跡から良く骨が出てきましたよ。小学校では同じく深川高橋で逃げ回った女学生が担任の先生となってまして、反戦教育として空襲の話を授業そっちのけでよく話してました。B29が実に巨大に見えたとか焼夷弾の落下は隅田川の花火そっくりだとか。もちろん、日本は正しかった、戦争は必要だといって食い下がりましたが。言いたかったことは、同年で同じ場所で育っても、これほど実感に差が出るということは面白いなというところです。では。

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