新聞の全国同一価格での販売を定めた新聞特殊指定制度を守るキャンペーンを新聞業界が展開している。4月6日開かれたシンポで日本新聞協会は「個別配達網は文字活字文化を守るライフライン。これを実質的に担保する特殊指定を撤廃しようとする公取委の姿勢には反対する」と表明した。
7日付の朝日新聞は、撤廃反対を表明した文化人や大学教授が相次いでいると伝えている。だが、特殊指定とセットの再販制度は新聞業界の公認カルテルである。これを撤廃することがなぜ活字文化を衰退させることにつながるのか、納得できる説明はなかった。12日には自民党の特殊指定を守る議員立法検討チームが発足したとの報道もあった。活字文化は自民党に守ってもらうつもりなのだろうか。
新聞の乱売合戦はよく知られている。事実上の値引き合戦が行われているのに、全国同一価格維持にどれだけの意味があるのだろうか。まして新聞は全国同一品質の商品を提供しているわけではない。配達に時間がかかる地域の新聞は、前日の記事が載っている。都心に配達される最終版の新聞とは明らかに品質で異なる。東京と大阪でも内容は違う。
朝夕刊セットで販売される地域では、夕刊はいらないから、割り引いてくれという読者の要求に応えて、値引きしている実態もある。販売競争が激しい地域では月額数百円割り引くところもあるらしい。
こうした販売の実態と特殊指定撤廃反対の論理とは矛盾しているのはだれの目にも明らかである。
シンポで基調講演した柳田邦男さんは「自分の関心事だけネットで検索していては世界が見えにくくなる」と話している。本人が欲しない情報でも半ば強制的に読ませる新聞宅配制度は、民主主義を守る砦になる一方、全体主義を助長する役割も担う。それは戦前、新聞の果たした役割からも明らかである。
このblogも活字文化だと思っている。blogの活字文化は誰が守ってくれるのだろうか。blogにも誹謗中傷、嫌がらせ、個人攻撃がある。blogジャーナリズムには宅配制度も特殊指定もない。読者以外誰も守ってくれない中で、すっくと立つ。それがジャーナリズムだと思っている。朝日新聞が最近までやっていたコマーシャル、ジャーナリズム宣言はいったい何を宣言していたのだろうか。
「何によって」とは、社会的意味合いを優先した美意識の有る表現だと思います。その美意識とは、「社会の動乱や権力に対する個人の主張の限界と思想的悶絶」など真摯に語る姿勢であると思います。長い熟練した記者経験を投影した短切な一文だと思います。また、読者の情感に訴える論理的な美文の一例だと思います。以下第一回SFC-GC春学期授業「マスコミュニケーション」における質問に答えてみます。
経歴を聞いた後の印象は、三点です。学生時代、原子力専攻の人物がなぜ新聞記者を志したのか。次に、なぜ定年まで朝日新聞に勤続したのかという質問です。そしてこれまでの経験を踏まえ、ジャーナリストとして原さんは今後10年間どのような使命と実行があるのか。
次に、ネットと新聞の影響力に関する勝負について。以下記載します。
「ネットと新聞の賭け」について、私は「ネット」が勝つと予想する。その理由は、ネットとは特定メディアとの依存による一定の「情報提供」機能ではなく、「ユビキタス」な情報を望むユーザーの需要を満たすメディアだからである。たしかに、新聞媒体とは、「事実と論理」に基づいてユーザーに、より「事実」に近似した問題提起を起案する使命と取捨選択可能な情報を提供する媒体である。その結果、新聞媒体の使命とは、「偏見のない正確な報道」に基づき、国民生活の生命と財産を守る「第四の権力」として三権分立を鼎立する機能がある。しかし、私が「ネットと新聞の賭け」において、ネットが勝つと予想する論拠は三点ある。まず、新聞媒体においては、「広告費」に依存した新聞媒体の構成によるユーザーの需要喪失である。次に、「分析記事」の定性的、定量的低下である。そして、インターネットを初め技術革新による「メディア情報の取捨選択の拡大」である。以上三つの論拠により私は、「ネットと新聞の賭け」において、「ネット」が勝つと予想する。以上です。
投稿情報: yoshida | 2006年4 月17日 (月曜日) 14:12
こんにちは
私自身はプロバイダに払うのと同程度の額を払う価値がなくなったと感じて、新聞の定期購読を止めてもう5年になります。ニュースを広く集めるという点では、ニュース系のwebを多く見るように努めるとか、最近ではRSSリーダを使うとか、ネット上だけで充分対応できます。
柳田邦男さんの「関心事だけ・・・」とういことはむしろTV、とくにNHKのニュースにいいたいところです。流行や特ダネを長々と流すのではなく、広範なニュースを淡々と流して欲しいですね。
活字文化という点でいまさら新聞に期待するのもどうかと思います。おしゃられるとおり、デジタルといえど文字情報ですから、少数の物書きでなく、広く多くの人が担えばよいことですよね。
投稿情報: 武藤 臼 | 2006年4 月14日 (金曜日) 12:37
↑なるほど、ならば新聞社にも活字文化問題を語る資格は無いわけだな。
(新聞が見出しに間違った日本語を使うのも最近では珍しい事ではない。)
で、誰に資格があるのだろう?
その理屈だと、たぶん誰にも資格は無い。
だから誰も活字文化問題なんて語らず、
Web以外の活字文化が廃れていくのを見守ればいい。
投稿情報: At | 2006年4 月14日 (金曜日) 09:59
「何のよって」ってどういう日本語なんでしょう?
タイトルを間違えて、それに気付きもしない人間の語る
「活字文化問題」とやらって、どの程度のもの何でしょうねぇ??(w
投稿情報: 名無しさん | 2006年4 月14日 (金曜日) 00:58