8月10日の朝日新聞朝刊、オピニオン面に孤児たちの遺言というインタビュー記事が載っていた。戦争孤児の会代表金田茉莉さんが語っている。「国に捨てられ、戦後の闇に消えた数知れない浮浪児」と見出しにある。
私と同世代の人でも浮浪児という言葉にピンとくる人は少ないはず。子どものころ、私は上野駅の近くに住んでいた。
「浮浪児がいる上野駅に近づいてはいけないよ」と親から厳しく言われていた。それでも通りがかりに出くわすことがあった。上野駅の地下街にはボロを着たうす汚い子どもたちと傷痍軍人がたくさんいた。省電(後の国電、現在のJR)のガード下にも上野駅からあふれた浮浪児はいた。彼らはドロボーやひったくりをするから近寄るなということだった。その浮浪児が戦争で親を失った孤児だという説明はなかった。だれも戦争孤児という言葉は使わなかった。浮浪児という言葉の裏側には差別意識があったのだろう。なぜ上野駅にあれだけ集まっていたのかも知らされなかった。
記事によると、浮浪児つまり戦争孤児たちが全国で何人いたのか詳しい統計はない。疎開中に東京大空襲で一家が全滅、孤児になった子ども多いそうだ。
3・11の空襲で下町が焼きつくされ、10万人以上の死者が出た。雨露がしのげる上野駅の地下街に孤児たちが集まるのは当然だった。だがこのことを理解したのは成長してからだった。
その浮浪児がいつの間にかいなくなった。親戚や里親に引き取られたり、施設に収容されたりしたが、金田さんによると、野良犬のように狩られ、トラックに載せられ山奥で放り出された子どもたちもいたそうだ。
浮浪児たちは私世代より数歳年上の子どもたち。私も空襲から逃れるため青梅に疎開した。自宅も焼かれた。まかり間違えば、私も浮浪児となり、野垂れ死にしていたかもしれない。生まれたばかりの浮浪児に生き抜く知恵も力もない。
長じて上野駅の地下街を通るたびに浮浪児という言葉を思い出す。
何も知らずにのほほんと育った自分が恥ずかしい。
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