亡くなった財界人の追悼文を書くのは好きではない。しかし、関本さんだけは例外である。とにかく仕事の上でよくケンカした。
知り合ったのは彼がNECの社長になった直後だった。当時私は「コンピューター社会学」という連載を新聞に書いていた。NECが電電ファミリー企業から総合エレクトロニクス企業に発展するころだった。
気に入らない記事を私が書くと、必ず叱られた。休日自宅にまで電話をしてきて、文句をいうのだからヘンな社長だ。私は反論するから、ケンカになる。ケンカの山は電電民営化の前後だった。電電総裁の真藤さんはファミリー企業を目の敵にしていた。ファミリーの親分的存在が関本さんだった。二人の対立はSS戦争などといわれた。電電の市場開放は時代の流れだったから、ファミリーの親分とは意見が対立する。
民営化後のNTT初代社長はだれになるか。私と関本さんは賭けをした。負けた方が夜飯をおごることにした。賭は私が勝った。関本さんが夜の席を設けてくれた。その席で彼は悔しそうにいった。「角さんが倒れなかったら絶対に私が勝っていたよ」。角さんとは田中角栄元首相のことである。
私はNTTの真藤さんともよくケンカした。関本さんからNTTの裏の事情を聞いていた。「ファミリーの論理は破綻しているのに、お前はいつまでファミリーの理屈をいうのか」というわけだ。SS戦争の真ん中で二人から叱られたが、二人とも私をかわいがってくれた。両方の論理をよく理解していたからだと思う。
NTT民営化の直後、二人を新聞紙上で対談させることにした。有楽町マリオンに二人を招き、対談してもらった。ところが、二人とも相手の顔を見ないで話し始めた。話しかけるのは私だった。最後まで二人は相手を見て話すことはなかった。
関本さんは経団連会長をめざす時期もあった。そのころ私は会うたびに「おやめなさい」といった。経団連会長は自分からなるものではない。推されてなるものだ、というのが私の持論だった。もうケンカにはならなかったが、うらめしそうな顔をされた。
最後に会ったのは今年の春ごろだったか記憶は定かではない。あるパーティー会場の出口で見かけた。会場を去るところだった。「お元気ですか」と声をかけた。ちょっと振り返ってニヤっと笑ってくれたが、いつもの「やあハラチャン」という返事はなかった。
「肩で時代の風を知る」。彼が昔よくいっていた。あの颯爽とした姿は消えていた。
関本さんにはお会いしたことはありませんでしたが、私の後見人であった小林宏治名誉会長からは何度か関本さんのことは話に聞いておりました。要は、名誉会長は関本さんばかり、世間で目立つので、嫉妬していたのです。老害などと悪評もでて名誉会長の言動も危ういと思い、「部下は可愛がってあげないと」と名誉会長に意見したことがありました。
投稿情報: s tanaka | 2010年7 月 6日 (火曜日) 02:24
関本さんを送る会にいってきました。献花する列に並んでいたら、すぐ前に塩爺の姿がありました。献花台には天皇陛下からの供物というのか御霊前というのか、何というのか知りませんが、小さな袋がありました。献花の後パーティー形式の会場に移動、懐かしい人に何人か会いました。ウーロン茶だけいただいて大学に向かいました。
toyotaさんコメントありがとうございました。
そうでしたか。対中輸出の件は知りませんでした。インドにスパコンを輸出する時、米国からいちゃもんがついたことは記憶にあります。詳しいことは忘れましたが。
投稿情報: junhara | 2007年12 月12日 (水曜日) 01:39
関本さんは知らなかったと思うが、中国へのスパコンのセールスで、関本さんはアメリカ政府機関の怒りを買った。アメリカは中国政府のスパコンにいろいろな細工をして売りたかった。いわば盗聴機付きのスパコンをである。
何も知らない関本さんは、トップセールスでNECのスパコンの受注を取ってしまった。
アメリカの苦労は水の泡である。
関本を殺せ!とアメリカの組織は暗殺指令を出した。
それからは誹謗中傷の仕組まれたスキャンダルが次々とマスコミに出るようになった。会社や家族のスキャンダルもすべて仕組まれたものだった。
関本さんは米中戦争のいわれなき被害者であった。本来の実力からすれば経団連会長も夢ではなかった。ビルゲイツが億万長者になったのは関本さんが創業時から支援したからである。NECが田町にスーパータワーを建てられたのも関本さんのおかげである。
多くの人は事情を知らないため、晩年はさびしい結末となった。とても気の毒であった。
投稿情報: toyota rolannds | 2007年12 月12日 (水曜日) 00:37