国連安保理首脳会合で核なき世界を目指す決議が採択された。歴史的決議であることはいうまでもないが、ホントに実現できると信じている首脳はどれだけいるのだろうか。イラン、北朝鮮の核開発をけん制する意味くらいしかないのではないか。わが鳩山君は非核三原則の堅持を約束したが、核持込の密約が明らかになったらどうするのか。今後は米軍艦船に核持込をさせないと米国に要求できるのか。日米で合意できなかったら国連での国際約束と矛盾することにならないか。心配である。
鳩山君はこうもいった。日本が非核の道を選んだのは被爆国としての道義的責任である。えっ、日本が核を持たないのは道義的責任からなのか。核を使用した米国には核廃絶の道義的責任があるのは分かる。だが落とされた側に道義的責任があるのか。
原爆を米国に使用させたという意味では、責任が日本政府にないではない。だがヒバクシャ、国民には道義的責任があるはずがない。鳩山君は政府と国民を区別して演説したのだろうか。
道義的責任とは法的責任以前の責任である。たとえ守れなくても誰からも責任を問われない程度のものである。日本が核廃絶を実現できなくても、だれからも責任追及をされなくてもいい程度の責任である。
米国では原爆を使ったことに道義的責任を追及する声はほとんどない。戦争を早期に終結させたという評価の方が定着している。だからこそ、道義的責任があるといったオバマのプラハ演説には意味がある。
被爆国日本には核の脅威をもてあそぶ連中に、核廃絶を主張する権利と義務がある。それは人類の生存のみならず、地球上のすべての生物の生存そのものに関わる。人間としての道義的問題をはるかに超えたところに日本の責任はある。道義的責任というより、地球的責任、生物的責任といった方がふさわしいのではないか。
鳩山君のいわんとすることは分かるが、日本語はどこかおかしい。
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