NHKの番組ブラタモリを見ていた。今週は私が育った町、上野界隈を取り上げていた。地元で育っても知らないことがあった。私の記憶と違うこともあった。
番組で初めて知ったのは、暗闇坂の下にある古めかしい、ツタの絡まる洋館が、かつては都電の変電所だったという事実だった。高校時代その幽霊屋敷のような建物の脇を自転車で上って高校に通っていた。
当時から不気味な洋館だった。自分も地元の人に質問した。「あの建物って何」。だが、明確な答えはなかった。森鴎外が住んでいたという噂は聞いた。鴎外が住んでいたのなら、記念館になっていてもおかしくない。余裕のない時代だったから、仮に事実だったとしても、幽霊屋敷を記念館に改装する奇特な人などいるわけはないと思っていた。
2年前、学生たちと上野の花見に行った。雑踏を避けて、ブラタモリとほぼ同じルートで花見をした。暗闇坂を下りて池之端に出た。その時もツタのからまる洋館は昔のままだった。番組によると、現在は上野動物園のみやげ物の管理倉庫になっている。
その昔、池之端の岸沿いに都電が走っていた。その痕跡を番組は映していた。沿線には墓石のような石が並んでいた。池之端の端を走る区間は現在の都電荒川線のようなジャリを敷き詰めた専用軌道で、車も自転車も走れなかった。
その都電を利用して小学校に通学した時期がある。いつもは広小路から16番か36番に乗って大塚窪町まで通っていた。いつも通勤、通学の乗客で満員だった。池之端を経由する都電は多少時間はかかったが、比較的すいていて、乗り換えることにした。黒門町で乗り大塚仲町で下りれば、学校までそれほど遠くはない。1年間はその路線で通学した。確か都電20番だった。
だがブラタモリでは37番の都電が映っていた。「こりゃ違う」。思わず叫んでしまった。記憶違いかもしれないので、インターネットで検索してみた。都交通局には都電路線図は載っていたが、都電路線番号はなかった。池之端を走る都電というサイトには写真が載っていた。やはり20番だった。
37だろうと20だろうと、どうでもいいことだが、池之端を走る都電は古きよき時代の思い出である。九州育ちのタモリがなぜ、古い下町の風景に郷愁を持つのか。妙におもしろい。
暗闇坂か清水坂か
11月27日にわが高校の同期会があった。その宴席でブラタモリ、池之端界隈が話題になった。高校から池之端に下る坂、暗闇坂の脇に建つツタの絡まる古びた洋館。高校当時みな不思議に思っていたそうだ。だが当時あの幽霊屋敷がいったい何なのか確かめた同級生は見つからなかった。ただひとりの女性がこんなことをいっていた。「あの坂は暗闇坂ではなく清水坂ではないの?」。彼女が地図で調べたらやはり清水坂だったというのだ。「そういえば暗闇坂って東京にはいくつもあるよね」と私。続いて、清水坂は「きよみずざか」と読むのか「しみずざか」と読むのかが話題になった。上野の山は江戸時代、東の叡山つまり東叡山といわれた。池之端は琵琶湖に見立てられ、清水寺に模した、大きな舞台を持つ清水観音堂があった。だから「きよみずざか」ではないかと私。宴席で結論は出なかったが、翌日、都内の坂を集めたウエブサイトで調べてみた。幽霊屋敷の横の坂は、彼女のいう通り清水坂(別名暗闇坂)とあった。読みは「しみずざか」。しかし「きよみずざか」も近くにあった。清水観音堂から下りてくる階段坂が「きよみずざか」だった。
同じ東叡山に二つの清水坂があるなんて。上野育ちなのにこの年まで知らなかった。
そうか、原さんはあの界隈の育ちでしたか。わたしは子どものころ新潟の山奥に住んでいたので、都電の記憶がまったくありません(というか、東京に来たことがなかった。蒸気機関車が走っていた時代、降雪で1週間も列車が止まった時代です。当時、東京は遠い遠い山の向こうでした)
競馬もやっていたことがあるそうですよ。過日、東京12CHで放送していました。
投稿情報: 佃 均 | 2010年11 月 5日 (金曜日) 11:25