沖縄が返還される7年前の1965年春、私は那覇から鹿児島に向かうひめゆり丸にいた。沖縄から本土に集団就職する若者が大勢乗船していた。同じ三等船室の乗客だった。夜になってもだれも寝ようとはしなかった。暖かい夜風が吹く甲板にみながいた。
15,6歳だったろう少女たちが私のまわりにいた。大阪や神戸に就職するという彼女たちの夢を聞いたり、私の沖縄での体験を話したりしているうちに、すぐに仲良くなった。
みなで歌を歌った。一通り歌った後、沖縄の歌を教えてほしい、と私の頼みに答えて彼女たちが教えてくれた民謡がこれだ。
一日にくんじゅ(五厘)
百日にぐくぁん(五貫)
あしみじゆながち
はたらちゅるひとぅぬ
たみてぃ すんなゆみ
ゆいやさあさ ゆいやさあさ・・・・・
40年前に教わった歌、しかも沖縄方言の民謡を正確ではないかもしれないが、まだ忘れていない。
最近夏川りみの「涙そうそう」がヒットチャートのトップを走っている。この歌を聞くにつけ、沖縄民謡を教えてくれたあの少女たちはどうなったのか、今は幸せに暮らしているだろうか、との思いが浮かぶ。
いくら働いても一日に五厘、百日で五貫。ためてどんな意味があるのだろうか。教わった沖縄民謡の意味はこんな意味だった。
沖縄戦終了からまだ20年たっていないころ。ひめゆりの塔も小さな石塔があるだけで、何も周囲にはなかった。守礼の門のすぐ下にあった陸軍司令部壕周辺からはまだ白骨が出る時代だった。
観光バスガイドの練習生と一緒にひめゆりの塔を訪れた時、先輩ガイドの説明に、練習生の少女たちがみな泣き出し、私も泣いた。あのガイドの卵たちはどうなっただろうか。みな「涙そうそう」を歌う現代の若者と同じ年代の少女たちだった。
石垣島の川平湾で時間を忘れて遊び、台湾行きの船に乗り遅れそうになった時、サトウキビを運ぶトラックが港まで急いでくれたこと、出航時刻を過ぎても船を出さずに私たちを待っていてくれた船長。みな親切だった。 「沖縄県民かく戦えり。後世、格別のご高配賜らんことを」という電報を打って自決した大田中将の遺言は有名になったが、その遺言が守られたとはまだいえない。
沖縄の歌はやさしく、かつ哀しい。でも明るい。だから現代の若者にも受け入れられているのだろう。「涙そうそう」を歌う若者たちは大田中将の遺言を実現してくれるだろうか。「涙そうそう」(沖縄方言で涙があふれるという意味)を聞くたびに涙そうそうするのである。
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