最近の大学は学生に教授の評価をさせるところが多い。授業を受ける側からの逆評定である。大学という企業も学生に教育サービスを提供するのだから、その消費者である学生の評価に耳を傾けるのは当然だが、教師が与えるものを、学生が授業料を払って受け取るだけで、大学というサービスは完結しない。つまり学ぶ意欲がない学生にいくら完璧な講義をしたところで、馬の耳に念仏、蛙の面に小便である。需要と供給双方が質の向上で一致しないと、良質なサービスが成り立たない。そういう点で大学は普通のサービス産業とは違う。
私も自分の学生による逆評価を読んでみた。おおむね学生には評価され、安心したが、中には講義が分からない、という評価もあった。話が分からないという評価はジャーナリストとしては恥ずべきことだが、私は必ず講義の終わりに質問時間をとっている。講義中の質問も許している。講義終了後の質問、メールでの質問にもただちに回答している。だから講義が分からないなら、なぜ質問しないのか、といいたくなる。
周囲に聞くと、シャイな学生が多いからだというが、自分が分からないのは教師の責任だと思っている学生が多いのではないか。
財やサービスを提供する企業にとって、消費者の苦情、意見は製品を改善する重要な素材である。需要側の情報がちゃんとフィードバックされないと、その企業はおかしくなる。大学だって同じだが、消費者である学生が分からないことをなくす努力、つまり質問する努力をしない限り、大学というサービス産業は、いつまでたっても質の向上は期待できない。
大学を社会や企業が必要とする人材を供給する生産工場だとするなら、学生はただの原料。原料の意見や評価を聞く必要はない。その意味では大学サービスの消費者は社会であり、企業である。学生はただ鍛えればいいだけだ。だとすると、企業や社会が教育コストを負担するのが筋である。でも教育コストを負担しているのは学生の親である。
親は子どもが社会で生き延びる知恵や能力を身に着けさせようと教育コスト負担をしているのだろう。それなら、分からないことを分からないままにする学生は、社会で生き延びる知恵も能力も身につかないのだから、コストをかけるのは無駄というものである。自ら問題解決能力を持たない学生をいっぱい生産しても日本の将来は明るくならない。
わかるとか良い成績をとるという意識があまり無い学生のほうが多いですね。単位さえクリヤすれば大卒ですから。そのタイトルやブランドが必要なので通学しているのです。教えている先生たちも青春時代はそんな面が無かったといえばウソになるのでは。質問して授業が長引くとバイトやデートや趣味の時間が減るので面倒なんです。
投稿情報: ある意味オトナ | 2005年8 月31日 (水曜日) 17:50
ドイツの学生は「前にも言っただろ」というようなことも平気でバンバン質問してきます。
日本の学生ができないのは・・・国民性なんですかね。それとも大学に入る前が問題なんですかね。
投稿情報: さい | 2005年8 月 2日 (火曜日) 05:26
僕が気になっていることを質問しない、できない場合は
教授でなく自分が悪いと考えている場合ですね。
授業中一時ぼーっとしていた、前回の講義を休んだ等。
つまり前に言ったじゃないか、と思われるのが怖いと
投稿情報: アル | 2005年7 月 4日 (月曜日) 08:47