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2006年3 月17日 (金曜日)

コメント

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ギモン

ABCによって支えられている部数の信頼性はどうやって担保するのだろうか。それとも、そんなものはもう要らなくてクリック数やビュー数が広告の有効性を支える基盤になるのだろうか。印刷所に勤めている人々の再就職先はあるのだろうか。販売店とその従業員たち、拡張軍団の人々は農林業などに変わりうるのだろうか。それともチラシ業として生き続けるのだろうか。新聞社自身は雇用の問題が引き起こす社内の争議をどうやって克服するのだろうか......。

それでも記者

そんな小手先のことよりも、ジャーナリズムの根幹を揺るがす捏造問題でも辞任もせず、息子が麻薬所持で逮捕されると言う公私にわたり不手際を行う人物が代表をしている社の姿勢のほうが問題だ。

ojisan

先輩も気になっていましたか(とは言っても、後輩が誰かはまだ特定されていないでしょうが)。
読者にとっては、デジタル化されて紙面サイズの制約がなくなれば、編集長、整理部、広告局の意向に関わらず、すべての取材記事が読めるようになって、劇場型のマスコミが少しはジャーナリズム精神を取り戻すのではないかと期待する。でも、販売店から見放されて、経営が苦しくなると、バラエティ番組新聞になって行く気もする。情報収集は只ではできない。只の情報は、価値のない噂話。しかし、社会は情報を只だと思っている。デジタル新聞が、読者の購読収入のみで成立するような社会になることを望む。それには、新聞に対価に見合う価値が必要だ。スポーツ新聞は成功した。一般紙も同じように購読者へ迎合しようとしたのではないか。硬派たれとは望まぬ。せめて、バランス感覚のある新聞が生まれて欲しい。先輩も、そんな新聞を求めてマスコミの世界に入られたのではないか。海外で読む日本の新聞ほど、なさけないものはない。外国語に翻訳されていないから、恥ずかしくなく人前で読んでいられる。別に外国紙が良いとは言わない。ジャーナリズムは、そんな矮小なものだったのか。
歳をとると、ボヤキが多くなるものです。

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