4日に亡くなったと新聞で知った。伊藤忠時代からおつきあいがあったが、情報サービス産業協会会長時代のおつきあいが深かった。同協会が毎年出版する情報サービス産業白書の白書委員をしていたからだが、一緒に酒を飲む時は、いつも彼の陸軍時代の話を聞いた。彼は陸士最後の卒業生。少尉としてビルマ戦線に従軍、軍旗を持つ旗手だった。軍旗を失うと旗手は割腹してお詫びするのが常識だった時代、彼は軍旗を焼いて降伏、帰還した。
軍旗を持つ人ってどういう軍人なのか、という話から、あのビルマ戦線から生きて帰還できた理由、そして高原さんのような合理的思考ができる人たちがなぜあんな馬鹿な戦争を指導したのか、質問しまくった。いつも丁寧に答えてくれた。最後は「その辺は本に書くからそれを読んでくれ」といわれ別れるのが常だった。
彼が自分の半生を書いた本を出版したのは彼が協会会長を退いてからだった。「悲しき帝国陸軍」という書名だった。すぐ読んだ。読後感は「私の疑問に答えていない」だった。出版記念パーティーで本人に伝えた。彼は笑っていたが、答えにくい書きにくい事情があったのだろう。
同書は日露戦争に従軍した彼の義理の父親だったか祖父だったかの遺書というか参謀本部に握りつぶされた報告書の話から始まる。日露戦争は乃木大将の203高地の激戦が有名だが、実はもっと簡単にもっと少ない犠牲で旅順を陥落させることは可能だったという話である。部下に多大の犠牲を強いて旅順港を望む高台を占領したのに、援軍が来ずやむなく撤退した軍人の話である。この反省なくして軍の将来はないという彼の意見に「勝った戦争なのだからいいじゃないか」というのが参謀本部の答だったと書いてある。
この辺が陸軍の間違いの始まりらしい。情報をきちんと整理できず、将来に役立てることができない体質が陸軍に巣くった。陸士には差別があった。幼年学校卒は陸士を出ると優秀成績卒業生は参謀に、中卒派は成績優秀でも参謀にはなれず情報担当になったというのだ。
現代でも組織内で情報担当は差別されているが、それと同じで情報が生かされる組織ではなかった。手元に同書がないから記憶があいまいだが、多分そういうことを書きたかったのだろう。
天皇制についても質問した。なぜ天皇のために死ねるのかと。それだけはいつも勘弁してくれという表情で、「あの時代はみんな天皇宗の門徒みたいなものだったから」というだけだった。宗教みたいなものだといわれると突っ込みようがなくなる。
高原さんにはもっともっと聞いておくことがあった。もうちょっと長生きしていてほしかった。
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