大江健三郎氏が17日朝刊の朝日新聞文化蘭に「被爆国の道義的責任とは何か」という一文を寄せていた。見出しは本人がつけたとは言い切れないが、被爆国の道義的責任とは何かを定義した部分はどこにもなかった。
道義的責任という言葉は、オバマのプラハ演説からしばしば登場している。米国が核兵器を開発し、人類の頭上に投下、非人道的惨禍を2度も引き起こしたのだから、核廃絶に道義的責任を負うのは間違いない。しかし被爆国に核廃絶の道義的責任があるのか。この点については昨年9月26日付けでこのブログで書いた。鳩山前首相が国連演説でこの言葉を使っていたからだ。
大江さんの論考はオバマ演説以降の日本政府の非核政策の非論理的展開について解説しているだけで、日本の道義的責任とは何かについて語ってはいない。核の傘に、あるいは非核三原則の法制化に賛成なのか反対なのか、はっきりせよというわけではない。核廃絶について日本ないし日本人に道義的責任があるなら、それはどういう責任なのか大江流でいいから定義してほしかった。友人である米人記者の不安がるメールを紹介するだけで締めくくっている。
私の定義は昨年のブログに書いた。人類史上だれも経験したことのない惨劇を記録し、伝え、説得することが日本の人類史的責任である。ほとんど反応はなかった。
8月6日と9日に開かれる祈念式で黙祷をささげる儀式的責任しか感じていないのだろう。大江氏といえどもきちんと定義できないようなら、日本政府や菅直人に定義できるはずがない。
この夏、書いたまま公表できていない原稿がある。タイトルは「原爆と私」。被爆国に生まれながら被爆体験のない自分と、原子力を専攻しながら文転した半生を振り返って書いたのだが、読者にいらぬ誤解をされるのではないかと躊躇しているのだ。大江氏にも何かためらいがあるのだろうか。
道義的責任という言葉は、オバマのプラハ演説からしばしば登場している。米国が核兵器を開発し、人類の頭上に投下、非人道的惨禍を2度も引き起こしたのだから、核廃絶に道義的責任を負うのは間違いない。しかし被爆国に核廃絶の道義的責任があるのか。この点については昨年9月26日付けでこのブログで書いた。鳩山前首相が国連演説でこの言葉を使っていたからだ。
大江さんの論考はオバマ演説以降の日本政府の非核政策の非論理的展開について解説しているだけで、日本の道義的責任とは何かについて語ってはいない。核の傘に、あるいは非核三原則の法制化に賛成なのか反対なのか、はっきりせよというわけではない。核廃絶について日本ないし日本人に道義的責任があるなら、それはどういう責任なのか大江流でいいから定義してほしかった。友人である米人記者の不安がるメールを紹介するだけで締めくくっている。
私の定義は昨年のブログに書いた。人類史上だれも経験したことのない惨劇を記録し、伝え、説得することが日本の人類史的責任である。ほとんど反応はなかった。
8月6日と9日に開かれる祈念式で黙祷をささげる儀式的責任しか感じていないのだろう。大江氏といえどもきちんと定義できないようなら、日本政府や菅直人に定義できるはずがない。
この夏、書いたまま公表できていない原稿がある。タイトルは「原爆と私」。被爆国に生まれながら被爆体験のない自分と、原子力を専攻しながら文転した半生を振り返って書いたのだが、読者にいらぬ誤解をされるのではないかと躊躇しているのだ。大江氏にも何かためらいがあるのだろうか。
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