学期末、ようやく受講学生の採点が終わった。アシスタントからはずいぶん大盤振る舞いですね、といわれた。自ら決めた当初の採点基準で計算すると合格点に満たない数人の学生にゲタをはかせたからである。
職業的もの書きからみると、学生の原稿はどれひとつ合格点はあげられない。授業で日本語の文章をどう書くか、いままで学校で教えられたことはあるか、質問してみた。だれひとり手をあげるものはいなかった。入試に記述式解答を求める問題が出るので、そういう文章の書き方は習っているらしい。しかし、断片的記述の要領だけではコミュニケーションをとる道具としての日本語にはならない。合格点をあげられないのは当然である。
私も子ども時代、日本語の作文を習った記憶がない。しかし、作文を書いて人前で読まされたことは何度もある。返却された作文には先生の朱が入っていた。それが日本語の教育だった。
新聞社に入ってからも、作文の指導はなかった。文章の書き方についてのマニュアルもない。先輩デスクと1対1で自分のつたない原稿について議論しながら、どう手直しするのか横目で見ながら、作文の技術を覚えていった。日本語の書き方はon the job trainingでしか教えられないのかもしれない。果たしてそれでいいのか、講義の裏で考えていた。
たまたま最近は日本語ブームで、学生の関心も高まっている。しかし、汚名返上か汚名挽回かどちらが正しいかを議論するより、どうすれば日本語で正しいメッセージを伝えられるかを問題にしないと、ネット時代に必要なコミュニケーションのための基礎的日本語能力は身につかないのではないか。
講義では原稿のよしあしを決めるいくつかの判断基準を示し、その基準に沿っているかいないか、で点数をつけていった。全体的に甘く点数をつけたが、それでも合格点に満たない学生が出た。原稿を書くグループワークに毎回参加したことが証明されれば、ゲタをはかせて合格点にした。
結果的に大学当局が求める成績配分比率にほぼ近い成績分布になった。だが、Aを出したからといって日本語能力に合格点をもらったと学生に思われても実は困る。Cをもらった学生は、訓練次第で今後いくらでも日本語能力は高められるのだから、悲観されても困る。
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