加入者が1000万人を超えるまでになった日本のADSLですが、日本で初めてADSLのフィールド実験が伊那で行われたことを知る人は、そんなに多くないと思います。その実験の場を提供したのは、伊那有線放送電話農協の中川さんという人でした。2月末でその中川さんが定年を迎え、2月25日に関係者が集まって、送別会が伊那で開かれました。元東京メタリック社長の東條さん、KDDI研究所長の浅見さんなど30人くらいが集まり、中川さんの労をねぎらいました。
実験が始まった当時、NTTはADSLにきわめて冷たい態度を示していたので、伊那の実験が日本のADSL実用化の突破口になったのは間違いありません。送別会参加者の中から自然に、伊那の駅前に、日本のADSL発祥の地、という石碑を立てようじゃないか、という意見が出たのも当然です。
なぜ実験が伊那で行われたのか。伊那有線に実験の条件が整っていた事情もありますが、ひとえに中川さんの飽くなき好奇心と前向きな努力、人と人をつなぐコミュニケーション能力の高さに負うところが大きいと思います。
時代遅れになりつつあった有線放送電話にいち早く光ファイバーを導入、95年にはNTTとの回線接続も実現して、電話の定額制も実現してしまったのですから、その行動力は見上げたものです。
95年の阪神大震災の直後、被災地でつながらない電話にだれもがイライラを募らせていた時、NTTだけに依存しないネットワークが必要だ、とする記事を私が書いたら、「伊那ではもう実現している」という手紙を中川さんからいただいた。それが中川さんとのおつきあいの始まりでした。
その2,3週間前、東京メタリックの創業者だった小林さんが、ADSLの伝送実験を都内のホテルで実演して見せてくれました。これが日本で初めてのADSL伝送でした。
中川さんからの手紙と小林さんの実験がほぼ同時期だったことは不思議な縁で二人が結ばれていたような気がします。二人を引き合わせたわけではないのに、小林さんたちが伊那でADSL実験を始めたのはその2年後のことでした。
中川さんからは、NTTとの接続問題や、電気通信の規制問題などでしばしば相談を受けたことがありました。その場合、私がそれは弱いものいじめだから、問題を公にして、つまり記事化して解決の道をさぐりましょう、といっても中川さんは、いつもまだ穏便に解決できるかもしれないから、ちょっと待て、といわれたものでした。気配りの人でもありました。
伊那有線放送はADSL商用化の一番乗りにはなりませんでしたが、あえて名声を求めず、争いを避け、にもかかわらず、確かなことは着実に実行する中川さんがいたからこそ、日本のADSLは世界のトップに立てたのだと私は信じています。
伊那有線放送農協は15億円の借入金を昨年全額返済し、バックボーンの光ファイバーも10メガから100メガに増速しました。ブロードバンド時代にふさわしい体勢を整えたところで中川さんが第一線を去るのは惜しいことです。
地方のブロードバンド化、IT化はこれからが正念場。中川さんのような人材がたくさん出てくれば、地方の時代は確実に来ると思うのですが。
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