この季節になると、わがブログでは東京大空襲のヒット数が増える。3年前の記事であっても、検索エンジンのおかげだ。
その後、親類などに聞き取りした結果、わが家も3月10日の大空襲で焼けていたことが判明した。実家は黒門町にあったが、子ども時代の記憶では、銀座通りを挟んで、西黒門町は焼けずに残り、東黒門町は焼けた。たったひとつの通りを隔てただけなのに、子ども心に不思議だった。
空襲当時私と同じゼロ歳だった下町生まれの落語家が東京大空襲の話を語り継いでいるという記事を新聞で最近読んだ。聞くも語るも悲惨な話をどう落語にしたのか、一度聞いてみたいとは思う。そういえば焼け残った西黒門町には落語家の志ん生師匠が住んでいた。
焼け出された地区と幸いに被災しなかった地域では戦後復興に大きなハンデがあったはずだ。しかし、そんな格差に不平や不満を口に出す人はほとんどいなかった。下町の人はあきらめがいいのか、潔いのか。政府に補償を求めるなんてこともなかった。最近、国を提訴する人も出てきたらしいが、戦後ずっと現れなかった。日本政府はホントにモノ分かりの良い国民を持ったもんだ。
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