2016年オリンピックの開催地の投票で東京が落選した。若者に夢をという石原さんの演説はよかったが、よく考えてみると、若者はオリンピックでしか夢を見られないわけではない。石原さんは、日本の閉塞感を打破するために東京でオリンピックを、と語っていた。閉塞感打破のためにオリンピックを利用する考え方は、国内の矛盾を解決するために侵略戦争に打って出た戦前の政治思想とどこか似ている。
鳩山首相は2020年までに温室効果ガス25%削減する公約を再度訴え、環境に配慮した東京開催の意義を強調した。だが、共感を得られなかった。
若者に夢を、社会の閉塞感の打破、環境への配慮、いずれも政治の本来の目的であるはず。オリンピックが東京に来なくても実現しなければならないはずだ。多くの選手、観客を集め、多くの施設や道路を建設しなければならないオリンピックは、開催しない方がはるかにエネルギー消費と温室効果ガス削減に役立つ。
開催地がどこになろうと、もうオリンピックというバカ騒ぎ、エネルギーの無駄遣いはやめるべき時代になったのではないか。鳩山首相は、環境配慮のためオリンピックをやめよう、と演説したら歴史的演説になった。
1964年の東京オリンピック。学生だった私は建設ラッシュの騒々しさに嫌気がさしたし、競技の勝敗をめぐる熱狂に、自分の心の中にもナショナリズムが台頭する危うさを感じていた。
21世紀の地球に、経済成長の加速も無用なナショナリズムも必要ない。もうオリンピックはその歴史的役割を終えたのではないか。古代オリンピックだって時代とともに立ち消えになった。
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