都立高校の卒業式で今年も国旗国歌の強制に従わなかった先生が処分された。去年に比べて処分された先生の数が減ったのは、先生が処分を恐れたからだろうか。
去年同じ問題で、BLOGに投稿しようとしてやめた記事がある。今年は思い直して投稿することにした。以下が去年投稿しなかった記事。
「国旗の掲揚、国歌の斉唱は強制にならないように」。皇室主催の園遊会の席で、「全国の学校に国旗の掲揚、国歌の斉唱をさせることが私の仕事」なんていった将棋の米長(都の教育委員)に対して、天皇陛下が答えた一言である。米長が返した言葉は、「もちろんそうです」。うろたえぶりが丸見えだった。
国旗、国歌の事実上の義務付けは教育現場をいたずらに混乱させるだけだ、と前々から思っていた。強制にならないように、という天皇の言葉はわれわれの気持ちを代弁した、というか素直な気持ちを表している。
ところが政府は、天皇は国政に関与しないという憲法上の原則から逸脱するものではない、と弁明にしきりである。
米長は国旗、国歌の義務付けに、天皇陛下も賛成してくれると思って発言したとすれば、米長の方が、憲法に違反している。政治に天皇の賛同を得て、その影響力を利用しようとしたのだから。
太平洋戦争開戦前、昭和天皇は開戦に消極的だったといわれる。それでも戦争になったのは、天皇が立憲君主制を重んじ、政府の決定を覆すことはできない、と判断したからだ、ともいわれている。
あの時、戦争は日米両国民のためにならない、と昭和天皇が発言していたら、戦争は回避できていたかもしれない。歴史にifはないが、昭和天皇が今上天皇のように発言していたら、東条首相など当時の政府関係者は、今回と同様、きっと慌てふためいたに違いない。
しかし、いつの世にも天皇を利用しようとするこすからい連中はいるものだ。いっそ、世俗の利害から離れた天皇陛下を教育委員に任命したらどうか。
ここまでが去年の記事。私は象徴天皇を支持しているが、この記事は、米長とは逆の立場でありながら、天皇を利用して国旗国歌を強制する動きを抑制することになり、自分は米長と同じことをやっているのではないか、と考えた。だから投稿しなかった。
しかし、今年も処分が繰り返された。都の教育委員会も懲りない面々である。私は子ども時代から卒業式では毎年君が代を歌ってきた。日の丸は戦争と結びついた印象が強くよいイメージは持っていない。国旗国歌といわず、何事もいやな人に心理的強制をするのは好ましくない。それが民主主義の基本だと思っている。象徴天皇の権威を借りるのは不本意であるが、天皇の権威を借りて全体主義を復活させる動きはやはり黙認できない。
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