「刑事訴訟法勉強してないんじゃない」とある弁護士。「基礎的なことが分かってないみたい」とある文芸団体の職員、「IT関連の記事もホントに分かって書いてるの?っていうのが多いですよ」とあるIT専門のジャーナリスト。
ある会合で出会った人たちと飲んだらこんな新聞観を語ってくれた。もちろん私が元朝日記者であることを知っている人たちだ。どこの記者を念頭において語ったのかは聞かなかったが、いずれの人も記者から取材を受ける側の人たちであるから、朝日記者も例外とはいえないだろう。
「刑訴法はサツ回りならまず最初に勉強するはずですよ」と説明しても納得してくれない。「一定期間で担当が変わるから最初は基礎知識が足りないかもしれないが、取材を重ねるうちに勉強するんですよ」といっても、だれもうなずかない。新聞不信というよりもう新聞記者不信である。
新聞社は専門記者を育てるより、どの担当になってもこなせるゼネラリスト的記者を育てる傾向が強い。特に一般紙は専門性よりわかりやすさを求める嫌いがある。自分の若いころを振り返ってみると、同じようなお叱りを受けた記憶がある。言い訳するようではあるが、記者は毎日締め切りに追われ、机に向かって勉強する時間がない。仕事をしながら勉強する、つまり耳学問の方が多い。かつて私を叱ってくれた人はこちらの勉強、耳学問のお手伝いもずいぶんしてくれた。この夜は「みなさんもっと若い記者を育ててやってくださいよ」というのが精一杯だった。
最近は記者も取材される側も忙しい。記者が勉強する時間も、記者を教育する時間も昔より少なくなっているのかもしれない。
そんなことを考えていたら25日の、朝日朝刊にジャーナリズム再興という主筆の論説が載っていた。書いてあることはごもっともである。しかし、第一線の記者と取材される側の信頼関係がなくなれば、どんな高邁なジャーナリズム論を説いても空回りになりかねない。ジャーナリズムの原点は取材の接点にあるのだから。
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